「たっ、助けてくれえ。おっ、鬼じゃ」
山道を曲ったところで突然鬼に出くわしてし
まった源蔵は、腰を抜かして仰向けに倒れて
しまった。鬼のほうはといえば、ぐわっと吠
えた後、大きな目をみ開いたままその場に突
っ立っていた。そして、口だけをあわあわあ
わと動かすだけで声を出せないでいる源蔵に
近寄り、その太い腕をのばした瞬間、源蔵の
体だけが山道を転げ落ちるように駆け出して
いた。実際、この時の源蔵は何も考えること
ができず、心は鬼と出くわした所に置いてき
てしまっていた。無我夢中とは、この事を言
うのだろう。とにかく走りに走った。少し落
ち着いた。と言うより、走り疲れてしまった
のである。源蔵はその場に転げ込み、もう動
けなくなった自分に待っている絶望的な運命
を確かめざるを得なかった。ゆっくりと後を
振り向いた。しかし、そこには自分を食おう
と襲いかかってきているはずの、あの鬼の姿
はなかった。ああ、これで助かったと思った
。とその瞬間、獅子の吠え声のようなものが
近付いてきた。その後に何が起こったかは、
源蔵は覚えていない。ただ村に入る橋の近く
にあるお地蔵様の前で倒れていたのを、幼友
達の権助が揺り起こすまで、いわば卒倒して
いた。
「おい、源蔵、起きろ。いってえ、おめえど
うしたんだ。汗びっしょりじゃねえか。それ
に顔が真っ青だぞ」
「おおっ、権助か」
と言うなり、相手の胸ぐらの中で泣きだして
しまった。
「いったいどうしたんだよう」
「鬼が出たんや。俺を食おうとほんのそこま
で追っかけて来やがった」
「鬼なんてどこににもいねえよ。ここら辺り
はいつもとおんなじで、野武士一人出たこた
あねえからな。静かなもんさ」
あまりにものんびりした権助の反応に、まさ
に九死に一生を得た源蔵は腹が立ってきた。
「もういい。長の所にいってくる。早くみん
なに報せてやんねえと偉いことになる」
源蔵はひょいと立ち上がり、もう足腰もしっ
かりとして早足に歩きだした。
「待ってくれよ。おらも行くから」
権助も後に続いた。
長の家とはいえ、特に立派ではない。この
里のどこにでもある茅葺き屋根の家だ。長は
一人で、家の前の小さな畑の草抜きをしてい
た。ふと頭を上げた時に源蔵達がやってくる
のが目に入った。
「おーい、泥だらけじゃねえか。どうしたん
だ」
「鬼に食われそうになったんだと。源蔵の奴
が」
「いいから、お前はそこで黙ってろ」
まだ源蔵は、ぷりぷりしていた。
「長よ、鬼を見た。いや、鬼に追っ掛けられ
た。俺を食おうとしやがった。ほんのちょっ
と前だ」
「鬼だと。どこで出たんだ。前山でか」
「いや、そのむこうの後山でだ。きのこを取
りに行こうと思ってよ。祠を過ぎて、ちょっ
と行って栗の木を曲った所で出やがったんだ
」
その時の恐ろしさがまた蘇ってきたのか、
源蔵の顔がみるみる青くなっていった。
「お前が見たのは、鬼じゃなく、山婆かもし
れねえなあ。あの祠がなぜあんな所にあるか
おめえら知っとるか。昔、後山のまだむこう
のお山に山婆が住んでおっての。里の人や旅
の人が幾人も食われたそうじゃ。誰も恐くて
あの山には近寄らんかったそうな。そんなあ
る日、旅のお坊様がこの里に来られてな。山
婆のわるさのことを聞かれて、一人でお山に
入って行かれたんじゃ。このお坊様はよっぽ
ど偉いお方だったんじゃろう。ありがたい仏
法で、山婆を見事退治なされてな。銀色に輝
く山婆の髪の毛と、竹に彫ったお経を山に埋
めなされたんじゃ。その後、お坊様の言付け
どおり、わしらの御先祖様が、そこに祠を建
てたわけじゃ。山婆の霊を祀るためにな。こ
の世がこんなに乱れて、山婆がまた蘇ったの
かもしれねえ」
この時代の日本には、近代の西洋科学思想
というものはない。したがって、源蔵や権助
のような二十歳を越えたばかりの若者でさえ
、魔物や山婆の存在を本当に信じていたので
ある。今では、伝説と言えばフィクションと
捉えられがちだが、源蔵達にとっては、昔実
際に起こったこと、つまり歴史的事実の伝承
なのである。この二人が真剣に長の話を聞い
ていたのも、当時としてはなんの不思議もな
い。
「長よ。あれは山婆なんかじゃねえ。男
の鬼だ。確かに山みてえにでっかかったけん
ど、ありゃあ、婆あじゃねえ。男の鬼じゃ」
「どんな奴だったんだよ」
横合いから、権助が口を挟んだ。
「そりゃあ、寺の和尚の巻き物の鬼その物よ
。顔も体も真っ赤だ。髪の毛まで赤かった。
あれは赤鬼にちげえねえ。体じゅう毛むくじ
ゃらで、顔にも髭があった。口の両端からこ
う牙がおん出てて、獅子のようにでかい。俺
の頭なんぞ一かぶりで、食い千切るに違いね
え。俺の首が、まだ胴に繋がってんのも不思
議なくれえだ」
「よしわかった。おめえら二人で、みなの衆
を善じいの所に集めてくれ。何といっても里
の長老だから、この話は聞いてもらわにゃな
んねえ。早く行け」
里の広場にある板木が、かんかん鳴るとみ
んな集まってきた。
「源蔵、どうしたんや。何かあったんけ」
「おお、そうよ。後山に鬼が出たんじゃ。み
んな早く善じいの家に集まってくれ」
みんななんだかんだと言いながらも、善じい
の家に向かった。水車小屋の隣の小さな荒家
だった。もう何の生産的労働もできなくなっ
たので、貧しい里の一番粗末な家に自ら移り
住んだのである。十人も入れば、足の踏み場
もなくなるので、里の衆の大半は、外で立っ
たままでいた。長と源蔵が、今日の一大事件
をみんなに話し、里の対策をみなに尋ねた。
誰かれとなく口にするのは、やはり御領主
様に鬼退治をしてもらうことだった。里の衆
が何人束になっても、鬼には叶わないという
ことだった。臆病であることが、里人のこの
乱世を生きぬくただ一つの術であった。
長も内心、他の衆と同じ気持ちであったが
、大事なことなので善じいの考えを聞いてみ
た。
「善じいよ、やっぱしみんなの言うよう
に御領主様にお願いに行くべきかのう」
みんなが、わいわいがやがやと勝手気ままな
ことを言い、結局、他人様頼りの結論しか出
せなかったのとは違い、一番冷静に事の次第
を判断していたのは、この善じいだった。
「いいや、それはなんねえ。この国の東は海
じゃ。だけんど、北も南も西もずっと山を越
えるとみんな敵だ。今の御領主様に何ができ
る。あっちこっちの里で、野武士にだって手
を焼く始末だ。鬼になんかかまっちゃくんね
え。それに侍が来てみろ。うまいもんを食わ
して、酒だって出さにゃならん。娘っ子も差
し出さんにゃならんじゃろうよ。それでもい
いのけ、おめえらは。野武士よりも始末が悪
いぞ。源蔵にしたって、鬼を見ただけで食わ
れたわけじゃねえだろ。後山に行かなけりゃ
、それで済むこっちゃ。わしに言えることは
これだけじゃ。里のことは長が決めればええ
」
誠に長老の言う通りであった。長の腹は
決まった。
「みなの衆、聞いてくれ。きょうから一切山
に入っちゃなんねえ。当分の薪ぐらいあるじ
ゃろう。なくなったら、みんなで裏山の方に
採りに行けばいい。鬼だって、この里までは
下りてこられまい。みんな、わかったな」
鬼が里まではやってこないだろうという期待
に身を任せる他、この里人達の自衛手段はな
かった。
第 2 章 大岡、猿に命じて鬼を調査する
鬼の正体が判明し、身の丈2mもある赤鬼の死骸が発見される。
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